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ベルリン [RADIO]


Thefalloftheberlinwall1989.JPG
Unknown photographer, Reproduction by Lear 21

東のRADIOでベルリンについての鮮烈な記憶が語られている。
食に関してはベルリンよりもチューリッヒのピザが美味しかった・・・。
確かに肉類を食さない者にとってはドイツ食はかなり厳しい。
ドイツへは二回訪れたが毎日毎食がソーセージと酸っぱいキャベツだった。
二回のドイツへ訪れたがベルリンには行った事がない。
「ベルリンの壁」は歴史上の非情なニュースで知っていたので「死の壁」の印象があるのみ。
見た事の無いベルリンの壁については崩壊が自分の中では唐突な事件で
21年前の「壁が壊された」ニュースに友人とともにかなり驚いた記憶ある。

5年前ハンガリー旅行で「ベルリンの壁崩壊の原因」を知った。
「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」
ハンガリーで「これからのヨーロッパを考える集会」開催が1989年5月に発表
8月19日ピクニック開催
11月9日ベルリンの壁崩壊
5月の時点で噂では亡命ができると広まりこのリスクに東ドイツの有識層が動く。
当時は社会主義国間での旅行はOKハンガリーへは自由に行ける。
開催地が首都ブタペストから離れたショプロンという観光地は、地図を見ても解るが
三方がオーストリアに隣接しゲート一つで自由の国へ歩いて行ける田舎なのです。
19日のピクニック開催中ゲートは開かれ1000人の東ドイツ人が亡命。
ハンガリー政府側の警察も黙認の中、脱出成功。
その後ハンガリー政府側の民主フォーラムの開催者にも咎め無し。
東ドイツ政府にもハンガリー政府への抗議をする気力も残っていない状態。
そして、このピクニックで証明された「東西自由に行ける事実」に「死の壁」はただの「コンクリートの壁」になった。

東ドイツ側から撤去が発表になるのが11月9日
壁崩壊への市民行動は10日から始まり東西の市民によってハンマーが打ち込まれた。
ピクニックという呼び名が自分の中では楽しい野外での遊びに捉えていたので
世界の歴史を変えるピクニックもあるのだと強烈な印象を持ち、ハンガリー旅行の時に
シェプロンへの訪問を希望したがその時は郊外までへの時間が取れず断念した。
ヨーロッパピクニック公園fer4.jpg汎ヨーロッパピクニック記念公園(シェブロン)

今年になってはUSAでも反オバマ運動が「Tea Party movement」お茶会の名前で全米に広がっている。
アメリカ独立戦争への引き金になった「ボストン茶会事件」を引用しての「ティーパーティー」
こちらも茶道の「お茶会」の発想からだと考えもつかない「文化の違い」「歴史の背景」知る。
アメリカ人がコーヒー党なのはイギリス支配のこのお茶事件で紅茶をボイコットすることに由来しているのだとか・・。

それ以来、「ピクニック」「お茶会」はお遊びの楽しいものから「意思のある集会」へと思考が飛ぶようになった。


歴史の時間に通過していてた他国の世界史はたった一冊の本、RADIOでのコメントで初めて自分の心の中に沁みる。

又、世界へ行きたくなった。

世界へ。


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